はじめに
幸せの定義は人それぞれだと思う。
ある人はドリームを叶えると幸せだったり、
ある人は愛しい人がいるだけで幸せだったりする。
それらのほとんどは条件付きの幸せであり、その条件が満たされた時に叶うものという特徴がある。
だが、それではずっと幸せに生きる事は不可能という事になる。
ずっと幸せを感じるには、条件と時間の縛りから自分の心を解放するしかない。
そうすると、不思議と今の幸せを感じとれるようになる。
しかし、今という視点で幸せを考える人は少ない。
下ばかりみる人
人というのは下ばかりみる傾向が強いようだ。
誰かと比較しては、自分を卑下し、誰かに怒られては、自信を無くし、
ミスをしては、自分を責め、気づいたら道を歩くのでさえも下を向いてしまう。
そういう時は、皆が不幸だと言うだろう。
「なんて私は不幸なんだろう」
だが、これが習慣だという視点で考えてみるとどうだろうか。
誰かと比較して、自分を卑下する習慣、誰かに怒られては、自信を無くす習慣、ミスをして自分を責める習慣、
そう、自分が不幸だと思う人の大半は、
ものごとをネガティブにみる習慣があるのである。
習慣があまりにも普通になりすぎて、もはや条件反射の域まで、ネガティブになっているのである。
誰かが言ったように、人生は半分がいい事、半分が悪い事だろうしそう思う。
しかし、人はネガティブに考える習慣の方が強い。
50:50の割合であるはずの事を10:90の割合に、ものの見方を無意識にすり替えている。
そして、この割合でネガティブに物事を考えると人生はとても辛く残酷になる。
あなたもその一人だったりするだろうか?
もし、そうならば、今すぐ考え方を変えるように訓練しよう。
(もし、考え方の変え方を学ぶなら、カウンセリング心理学を学ぶのが個人的にはおすすめである。人の悩みの根本がわかる。)
敢えて幸せを感じてみる
習慣とはなかなか消えないから習慣だ。
だから、前向きに考えろといっても。
なかなか習慣を治せるものではない。
でも、ほんの少し幸せを感じる事はできるはずだ。
- ご飯を食べたとき幸福を感じてみる。 ただ、毎日ご飯を食べる事ができるそれだけで幸せなことではないだろうか。他に何かいるだろうか?ごちそうが必要なのだろうか、もっと高い料理が必要なのだろうか、そんな事はない家族が丹精込めて作ってくれた料理、ただそれを毎日食べるだけで幸せではないだろうか。
- 家族とバカい笑したときに幸せを感じてみる。 家族と何気ない話でバカ笑いをする。その瞬間ほど楽しいものはない
- 健康で会社に通勤する事に幸せを感じてみる。 通勤時間は辛いが、健康で毎日通えている、それだけで幸せなことだったりする、世の中には働きたくても病気で働けない人はたくさんいる。
- 日常の景色をみて幸せを感じてみる。 日常の何気ない景色、例えば田んぼの中に菜の花が綺麗に咲いている、それだけで感動するものだ。
- 恋人やパートナーと抱き合ったときの幸せを感じてみる。 愛し合い抱き合う事はそれだけで祝福の時ではないだろうか、その幸せを噛みしめたいもの。
- 子供と何気ない会話をしたときの幸せを感じてみる。 子供はヤンチャで面倒ごとも多いが、純粋無垢な面がある、ふと会話の中でそういう事を心底おもう事はないだろうか、そういう会話から生きることの真理を垣間見ることができる。
- 旅行先でただボーっと時間が過ぎる幸せを感じてみる。 旅行中、静かな時が流れる自然の中でただボーっとする、それだけで日頃の悩みなどどこかに流れていってしまう。
- ただ一冊の素敵な本を読んだ幸せを感じてみる。 私は本を読むのが好きだから、熱中して読めたり、深く感動させられる本に出会うのが好きだ、そういう本に出会った感動は今でも忘れないし、本当にその出会いに感謝する。
- 感動する映画をみて泣ける幸せを感じてみる。 映画で思わず感動して涙が出る事があるだろう、非現実の世界だったとしてもそこには深い感動がある。そうやって何か感動するようなものに出会ったこと、その瞬間に幸せが宿っている。
- ものすごくおいしい料理に出会った幸福を感じてみる。 おいしいものを食べる時は、至高の瞬間である。健康でおいしいものだって食べられる、それだけで幸せではないか。私も病気で食事制限をしたことがあるが、好きなものを食べられないそれだけで辛かった。だから今日も食べられることに感謝しよう。
- 勉強で高得点をとった喜びと幸せを感じてみる。 勉強は嫌なモノという観念を多くの人が学校教育の中で植えつけられているが、実際は勉強でいい成績を取るということは、自分の努力の結果が表れたという事であって、喜ぶべきなのだ。悪い点なら多少反省し、さっさと忘れ、良い点を取ったら思いっきり自分をほめてあげよう。なんか幸せな気分になり、自信が湧いてくるはずだ。
- 家族が毎日健康であることの幸せを感じてみる。 毎日家族そろって、ご飯を食べ、テレビをみて、一緒に寝る。そのスパイラルな毎日を過ごす。それって幸せな事ではないだろうか。あなたは神社で家族が健康でありますようにと願わなかっただろうか?今日、この瞬間にその願いを神様は叶えてくれているではないか?色々と苦労や不平不満があったにしろ。その幸せをもっと噛みしめてみるべきだろう。
- カフェでゆっくりコーヒーを飲める幸せを感じてみる。 私はカフェでゆっくり過ごすのが好きで、どんなに仕事が忙しくてもカフェに入った瞬間からリラックスできる。なんて幸せなことではないか。あなたにも幸福を感じる場所があるはずだ、悩んでいるなら、そういう場所にいってホッとしてみるといい。きっとあなたの中にも幸福の芽があり、それに気づくことになるだろう。
- 給料がきちんと入ってくる幸せを感じてみる。 私はサラリーマンだが、給料が入ってくるだけで幸せを感じる。個人事業主や会社を経営されている方は、その幸せほ痛いほど感じているだろう。私も転職で給料が入らない怖さを少しだけ味わったが、こうやってお金が入ってくる。それだけで感謝しかない。
- 毎日、働いて汗を流すことができる幸せを感じてみる 最近、ガンバるという事が忘れられてきているが、時には仕事を一生懸命やることも大事な事である。そうすると仕事が楽しくなってくる。そういう仕事ができること、これも幸せなことである。仕事=苦痛なのではない。仕事=幸せにもできるのだ。
- 毎朝、ニュースをみてぼーっとする平凡さに幸せを感じてみる。この普通の日常が続くという事を奇跡と思わないだろうか、その奇跡を毎日味わえる事は幸せな事である。平凡が続くとは大きな良いことはないが、悪い事もないという事。この意味の深みを知ろう。
このように、幸せを感じる感覚を毎日少しずつ磨いていけば、10:90(幸福:不幸)となっている比率も徐々に変わっていくはずだ。
このように感じ方を変えれば、心は錯覚を起こし、幸せを敏感に感じるようになる。
幸せを感じるのにも訓練が必要なのだ。
幸せには勇気がいる
幸せには、しかし、勇気がいる。
勇気がいるからこそ、一歩が踏み出せない。
幸せを感じるだけでもそうだ。
今、たくさんの人は、今、幸せを感じてしまうと、明日が不幸になると真面目に考えている。
占いをみても、ずっとランキングが一位という事がないから、洗脳されているのだ。いい事は続かない、次は悪くなると。
しかし、人生はいい事も、悪い事も半分半分なのだ。とすれば、今幸せを感じても、明日不幸になるとは限らないのだ。
だから、勇気をもって、幸せを感じなければならない。
今幸せを感じたから、次の不幸がくると思うのは、映画やドラマの見過ぎかもしれない。
確かに、ドラマや映画は、家族の幸せのシーンの後に、悪いことが訪れる場面は多くある。
それは、物語である以上は仕方ないのだ。演出なのだ。
そうでなければ感動を呼べないし、視聴率も取れない。
幸せは感じるもの
もしあなたが、今幸せを感じないのであれば、明日も明後日も感じることはできないのだ。
その場、その瞬間で、幸せは感じるものだ。
そして、その積み重ねが、例え、良いこと半分、悪いこと半分のこの世界でも、錯覚で、いいこと90、悪いこと10という比率にもなりうる。
錯覚だが、それは十分な幸せなのだ。
おわりに
私は自分がまるで幸せを感じる事ができる人のように書いているが、転職を失敗しまくり、不幸のどん底だと感じて、鬱々と過ごすただのサラリーマンだ。
だから、理想を書いている面もある。しかし、最近になって、幸せになるには、
幸せだと思う勇気が必要であり、更にそれを習慣化することで、人はもっと幸せになれるのだと気づいてきた。
だから、これから、自分自身が上記の事を実践していくことになる。
錯覚を信じてみよう。
あくまでこのブログは『自己実現なひとりごと』なのだから。